東京司法書士会三多摩支会
司法書士とは 支会紹介 無料相談 情報誌 イベント情報 リンク 研修会等情報(会員向)

 支会ニュース「アダージョマエストーソ」 第122号 2013,10,07

 ■ 目 次

  福島第一原発事故・帰還困難区域の大熊町を、一時帰宅住民に随行して視察
    
〜あのときの、そして現在の大熊町の実情を見てまわり、悲惨な事故を決して忘れない〜


 平成25年9月29日(日) 「福島原発」帰還困難区域の大熊町に一時帰宅住民とともに入る

 9月29日(日)、東日本大震災被災者対策委員会の委員4人が、福島第一原発事故によって町の人口96%もの人が住んでいた地域が帰還困難区域に指定されている大熊町に、 一時帰宅・墓参する住民に同行させてもらって被災地を視察した。HP編集室も対策委員に同行取材した。
 同行視察の話は全町が警戒区域だった昨年夏からあったのだが、放射線量の多さや国や町の施策=区域の見
直し、住民の一時帰宅の物心両面の準備やら多忙を極

除染した汚染土がその場所に仮置されている(楢葉町)

防護服などを配布する検問所(第二原発敷地・富岡町)
めていたため、今回やっと実現した。
 避難区域の範囲を、原発事故発生時の3km以内、10km以内、20km以内等と、そのときの気象条件や科学的データに基くものではない漠然たる机上の設定や、「計画的避難区域」「警戒区域」「緊急時避難準備区域」と いうこの国の官僚特有の国民に理解できない紛らわしい名称付けでかえって混乱の元となった設定が、現在では「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」とし
て再編されている(地図参照)。
 この新名称自体が何を意味しているか一般には理解しづらいので復習しておくと、@帰還困難区域(年50ミリシーベルト超)事故後6年経過しても生活が可能と される年間20ミリシーベルトを下回らない地域、A居住制限区域(年20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下)引き続き避難の継続を求める地域、除染で線量が下がれば帰還可能になる、B避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下) 早期帰還に向けた除染・都市基盤復旧・雇用対策等を早急に行い、

これより先は帰還困難区域のため警官が検問(富岡町)
生活環境が整えば順次解除される地域、とされる。
 現在ABの区域は、原発対策関係者と住民は原則的に昼間自由に立ち入ることが出来るが、15歳未満の子供は立入禁止だ。
 なお、1年間は8760時間だから、年間20ミリシーベルトとは毎時2.28マイクロシーベルトを意味する。人間が自然界で通常受ける放射線量が世界平均で年間2.4ミリシーベルトと言われている。 子供達が立ち入りを避けたほうがよい線量の区域に保護者達が戻ってこれるわけもなく、この区域分けに疑問の声も出ている。
 政府の原子力災害現地対策本部は、住民から一時帰宅の回数を増やしてほしいとの要望が相次いだため、今年4月24日から、 原則立入禁止の警戒区域と帰還困難区域の住民の一時帰宅を毎月1回認めることとした。これまでは年3、4回の割合で一時帰宅して
いたのが、帰宅日は住民が1年を通し、自由に選べることになった。ただし滞在時間は5時間以内に限定される。
 29日朝10時半、常磐自動車道広野インターを降りて、今回随行させてもらえることになった住民Aさんと落ち合った。昨年から会津若松の仮設住宅を数回訪問して顔馴染みになっている方だ。 早速Aさんの準備されたワゴン車に乗り込んで、国道6号線を北上し、20km圏ぎりぎりのJヴィレッジや道の駅「ならは」を過ぎ、帰還困難区域に立ち入る検問所のある福島第二原発に向かう。道中、国道脇

背丈を超すセイタカアワダチソウが生い茂っている水田
では除染して表土がむきだしの涸れた田んぼが見える。と同時に、剥ぎ取った汚染土壌を詰めた黒いビニールのような1立方メートルぐらいの土嚢が整然とあちこちに並べられている。最終処分するまでの間 、安全に集中的に管理・保管するための中間貯蔵施設の候補地さえ決まらないため、仮置場としてほとんど除染した場所で保管しているのだ。 除染されてない田んぼは雑草が生い茂っている。 多くの住宅では、屋根にシートをかぶせ土嚢で抑えてある。地震で崩れた瓦屋根の補修ができないままなのだ。
 第二原発敷地内の検問所で、Aさん準備の立入許可証を提示し人数の確認をされ、全員の住所氏名年齢が記された
許可証を受け取り、全員の防護服や放射線測定器をもらう。測定器は、ここから出るときまで各自首からぶら下げておくよう指示を受ける。ここを出て国道に戻りしばらく進むと、 警察の検問ゲートでまた許可証等の提示を求められる。ここには「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板がある。放射線による健康被害予防のため無許可での立入禁止のゲートが、同時に不審者進入の検問を兼ねている。 強制的に避難をさせらた区域の住民の留守宅を「帰還に備えて」警備するのは国の責務だが、残念なことに、住民不在の町で多くの住宅が空巣被害にあっているので、最近、警察のパトロールも強化されたそうだ。
 ゲートで人数確認などを終えると、いよいよ海岸に近いAさんの住宅に向かう。 国道沿いの住宅には、空巣防止のため
に復興庁の費用で入口に柵が施されているが、「遅いんだ

雑草に覆われどこに入口があるのかさえ分からない
よね、取られるものは取られた後だから。もう何にもないよ」。
 水田だったところはいたるところ背丈を超す雑草セイタカアワダチソウに覆われている。Aさんの住んでいた集落は津波に襲われた。津波で家ごと全て流された家々の土台も庭も境目なく一面雑草の海となっている。 第一原発から約3.5kmの距離のAさん宅はそんな水田地帯の少し高台に建っていた。Aさん宅は津波の被害はなかったが、標高5mという平地の水田地帯に建っていた住宅や集会所、神社はみな津波の被害を受け、この集落で4名の命が失われた。 住民の避難に駆け回っていたAさん自身も津波に襲われ神社裏の木に掴まって命からがら助かった。「神社がごっそり持っていかれたことから、津波は15mぐらいはあった」という。
 自宅の中に案内してもらった。除草剤を一度散布したそうだが、門に至るまでのスロープも草茫々、庭は背丈ほどの雑草で足の踏み場もないほどだ。雑草を掻き分けて玄関から入ると、3・11大地震で襖や家具は倒れ、 食器や小さな家具は転倒して散らかったままだ。幸いにも屋根に被害がなかったので雨漏りはしてない。会津若松の仮設住宅に身を寄せる人が、「一時帰宅してみると、瓦が落ち雨漏りのせいで、家の中は一面カビだらけ、 床は波打ち、箪笥の中もカビやコケで衣類なども持ち出しようがない、あの家ではもう生活できない」と言っていたのを思い出した。イノシシや野放しになった家畜が踏み荒らしていた家も 震災当日のまま、片付ける間もなく避難命令が

堤防が壊れ海辺沿いの松林に残る一本松もどこか物悲しい
あるという。Aさんが言うようにAさん宅は地震での被害は少ないほうだ。しかし、家中いたるところにねずみの糞があり、ねずみ対策としてナフタリンがばら撒かれていたが、効き目があるかどうかは分からないそうだ。 空家になった家で家ネズミ、野ネズミが繁殖しているらしい。
 Aさん宅の周りには今は雑草に覆われた水田が広がる。「原発事故さえなければ、今頃は黄色い穂がたわわになっているはずだ」とAさん。その表情には、やりきれなさがにじむ。
 Aさん宅を出て海岸まで連れて行ってもらった。堤防が、三陸地方での津波被害と同じようにぐちゃぐちゃ
に壊れている。小さな川の河口に架かっている橋の欄干も壊れている。放射能測定器が建っていたコンクリートの土台は基礎ごと倒れている。海岸近くの住居跡は説明がなければ分からないほど雑草に覆われている。 海岸に立っていた松林は幾本かの松が残った。津波に耐えた幾本かはその後塩分で枯れてしまい、もう数本しか残っていない。夏は海水浴場だったという浜もあり、背後は水田と小高い丘、津波被害も原発事故も
海水浴場もあったという美しい海岸線に残る津波の爪痕

農作物集積場のトラクターや器具も津波で破壊された
なければこんな絵に描いたような小さな川の流れる田園風景、そして海岸風景、誰でも一度は住んでみたくなるような日本の原風景だったに違いない。
 津波で倒壊した建物の瓦礫は、放射線量が下がってきた昨年、自衛隊が防護服を着てきれいに片付けてくれたそうだ。原発の影響のないところと違い、瓦礫の処理もできず山積み野ざらし状態で 、そのまま雑草に覆われて説明がなければ瓦礫の山とは分からない。
 海岸近くの高台にある、集落の墓地に行ってみた。倒壊し散乱したままになっていた墓石は、今年のお盆を目標に復興庁が墓石の整理整頓を、環境省が墓地・墓石の除染
をしたそうだ。余震を考慮してか墓塔は横積みしたままだ。地震での被害に関しては復興庁が、原発事故で近寄れないことへの対処は環境省がということのようで、 縦割り行政に住民も苦笑せざるをえないほどの弊害が随所で見られるそうだ。
 墓地の近く、親子孫3人が津波の犠牲になった家の裏の台地に真新しい墓標と地蔵尊が建っていた。
 この後大熊東工業団地を抜けて、第一原発直近の海沿いの高台を通る道を北上した。漁業協会の大きなドーム型建物の屋根が津波で吹っ飛んでいた。国土地理院の

集落の公民館も1階は津波で破壊され続棟は倒壊した

生い茂る雑草に建物があった形跡さえ分からなくなって
地図上でも標高10.2mの三角点が標されている。この高度の上にさらに高さ10mはある建物の天井まで津波が達しているのだ。原発の敷地までは1kmも離れていない。
 これ以上北には通行止めとなっていて進めない。原発の敷地を遠巻きにかすめるように西進して、JR常磐線大野駅に向かった。 途中、樹林が切れた所から第一原発敷地内が遠く見渡せた。今問題になっている汚染水タンクも見える。
 大熊町は1954年大野村と熊町村が合併してできた町で、JRの駅名は1904年にできた国鉄時代の大野駅の名称のままだ。常磐線は、現在、広野駅(広野町)〜原ノ町
駅(南相馬市)間は津波被害と原発避難区域となっているため不通だ。ちなみに、原ノ町駅〜相馬駅(相馬市)間は運行されているようだが、 相馬駅から宮城県の亘理駅(亘理町)までは津波の被害が甚大で復旧していない。不通になっている線路はレールが赤く錆付き、雑草が生い茂り、まるで廃線区間のようだ。 駅のそばには町と民間の共同出資によるビジネスホテルもあり、事故前は原発関係者の出張で栄えていたそうだが、もちろん今は廃墟だ。
 駅の西側に行くと、古くからの街並みが広がる。商店や飲食店が立ち並び、かつては原発に出入りの人々で

散乱した墓石もそれぞれの墓に整理整頓され除染された

墓標の真下に見える家の家族三代3名が犠牲になった
にぎわっていたに違いない。が、今では全てが止まっている。 昨年、視察したある経産大臣が「死の町」と発言して、読売新聞が問題視し、自民公明両党がこれに呼応して辞任に追い込んだことがある。しかし、あの発言が間違っていたのだろうか? 死の町にしたのはいったい誰なのか。 国策として安全神話を植えつけてきたそれまでの政権ではなったのか? 政権が変わり、原発推進へ舵を切る今から見ると、原発ゼロを当然と考えていたふしのあるあの大臣に対する原子力ムラ挙げての総反撃だったのだろう。 チェルノブイリ事故ではマスコミはこぞって「死の町」と表現しているではないか。東電の相変わらずの無責任体制と臭いものには蓋的対応であの事故を風化させようとしているかに見える政治状況の中で、そうなってしまってい
る現実と、そうさせてはいけない国の責務を、そして原発に対する国民の厳しい視線を、あの言葉狩りで有耶無耶にしてしまったのではないだろうか。
 この後、事故当時真っ先に職員全員が逃げ出した原子力安全・保安院の入る建物を見物に行った。それは、人口密集地の駅から程近い場所にあった。彼らには町民の安全よりも自らの身の安全のほうが先だった。 その行為は、大変な事故になる予想が、当初から彼らにはあった証しだ。
 大熊町役場、町の文化センター、図書館等はみな駅の近くにあって、どれも超が付くくらい立派な建物だ。原発立地を容易にするために制定された電源三法による交付金で、町ではひたすら箱物を造っていかざる得なかった実態がわかる、 Aさんの説明にも自嘲とも取れる慙愧に堪えない表情が。
 その電源三法による交付金で町財政が潤っていた証しの

かつて墓地から海岸方面を見下ろすと田園風景だった
ひとつとして、町の開発により宅地分譲された一画にも案内された。利益が出る必要がなかったそうで、1区画の広さは100坪程度あって非常に人気があったそうだ。 分譲してまだ3年ぐらいだそうで、新築の住宅がずらりと立ち並ぶ。しかし、今は誰も住めない。所々の住宅は、ガラスが割られている。空巣被害の痕跡だ。
 最後に、入院患者、関連の介護老人保健施設の入所者を含め計50人が亡くなった双葉病院に寄ってみた。ひところTVなどでもよく放映されていたが、今は柵が張り巡ら
されて建物には近づけない。原発から約4.5kmの距離だ。東電は患者・入所者50人の死亡について原発事故との因果関係を認めず、遺族が現在争訟中だ。 マスコミによる「患者置き去り」報道が誤報だったことは解明されているが、この誤報に至る経緯等はこちらにサイトが詳しい。
 大熊町の様子を一通り駆け回ってもらった後は、防護服を脱いで線量の測定をするため再び第二原発敷地にある検問所へ向かった。途中、津波で崩壊した常磐線富岡駅に寄った。駅舎は流され、ホームの看板や電柱がなぎ倒され、海岸まで見渡せる。時折照りつける 暑い日差しで、防

今頃はたわわに実る稲穂が黄金色に輝いてるはずが

こんな大きな建物の屋根まで津波で吹っ飛んでしまった
護服の中は汗びっしょりだ。
 Aさんには、多忙のなか、無理なお願いに応えていただき感謝の言葉もない。この場を借りてお礼を申し上げたい。Aさんは屈託なく、自分から言い出した見てくれとの誘いに応じてくれてありがとうと言っていたが、 あの言葉は、皮肉ではなく、原発被災者支援を謳うならせめて大熊町のこれぐらいのことは分かっていてほしいという願いだったかもしれない。そう、せめて、原発の位置や駅の名称、常磐
線や国道6号が通っていること、町の中心部はどこか、人口、…等々。 (HP編集室)  →上へ